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古い時代

栃木市は、旧石器時代の石器や縄文時代の集落跡が見つかるなど、古くから人が住む地域であり、律令時代には、現在の栃木県域とほぼ同じ下野国(しもつけのくに)の国府が置かれるとともに、東山道が敷かれ政治や交通の要衝でありました。また、この時代に「岩船山」は開山され、現在も霊場として広く信仰を集めています。

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奈良・平安時代

奈良時代の末期に勝道上人によって出流山(いづるさん)が、また、平安時代の始めには慈覚大師によって太平山(おおひらさん)が開かれました。一方、「室の八島(むろのやしま)」・「しわぶきの杜」・「しめじが原」・「伊吹山」など歌枕として知られ、都の人々に詠まれたものが幾つも見られます。平将門による承平・天慶の乱の後、藤原秀郷の子孫がこの地に勢力を張りました。

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鎌倉・室町時代のイメージ写真

鎌倉・室町時代

元歴年間、小山政光の子宗政が新しく長沼氏を興し、寛喜年間、その子宗員が皆川(みながわ)の庄の地頭となり皆川氏を称するようになりました。6代目の宗常は時の鎌倉幕府の執権……北条高時に背き、元亨3年、その領地を没収され、小山氏の領するところとなりました。が、宗員の甥の秀行から7世の子孫にあたる長沼秀光が皆川氏を再興し、皆川城にあって皆川の庄50余郷を領し、応永元年栃木郷に出城を築いたとも言われています。

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戦国時代のイメージ写真

戦国時代

北上してくる小田原の北条氏、越後より上杉氏、東北方より宇都宮氏、東方からは佐竹氏とそれぞれの勢力が進出する中にあって、戦乱は絶え間なく続きました。天正18年、豊臣秀吉の小田原城攻略の際、時の領主…皆川広照は北条氏との盟約により小田原城に入りましたが、その留守中に豊臣方派遣軍に攻められて皆川城は落城しました。徳川家康に好(よし)みを通じて降り本領を安堵され、天正19年から本格的に栃木城を構築。町づくりを行い、現在の栃木の基を築きました。

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江戸時代

慶長14年、皆川氏は改易され、本多大隅守の支配するところとなり、栃木城も取り壊わされて、城下町から商人町へと発展しました。また、「日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)」が、岩舟町の街中から栃木市へと通り、富田宿、栃木宿、合戦場宿(かっせんばじゅく)、金崎宿(かなさきじゅく)の宿場が置かれ、現在のまちの基礎ができました。さらに、江戸時代後期以降は、渡良瀬川(わたらせがわ)と巴波川(うずまがわ)を利用した舟運による物資の集積地として発展し、その歴史や面影が藤岡町部屋地区の河岸、栃木市中心部の蔵の街並みとして残されています。

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明治以降のイメージ写真

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明治以降

栃木県の県庁所在地となったが、時の県令が、この地域の自由な風土から自由民権運動の拠点の一つとなっていたことを嫌い、現在の宇都宮市に県庁を移しました。また、明治後期から大正にかけて、周辺の河川の治水を目的に渡良瀬遊水地が整備されましたが、その際にも谷中村(やなかむら)が合併になるなど、数々の歴史の舞台となりました。

1955年(昭和30年)前後には「昭和の大合併」を経て、新市を構成する旧1市5町それぞれの行政区域が形成され、1965年(昭和40年)代半ばには、本格的に住民生活に密着した行政サービスを共同で処理するため、ごみ処理、し尿処理、消防分野において、県内でいち早く栃木地区広域行政事務組合が設立されました。

また、昭和後期からは、「地方の時代」と言われ、全国の地方自治体が競って、それぞれの特性を活かした「まちづくり」を積極的に展開し、栃木地域においても、ハード、ソフトの両面から様々なまちづくりが行われ、市町村の個性を築いた時代と言うことができます。この他にも、旧市町には様々な歴史があり、新しい栃木市においては、観光振興の分野において、現存する地域資源を活用し、栃木市を築いた大切な歴史を次世代に継承しながら、これからも栃木県南の中核都市として発展を続けていきます。

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